【保存車両】北陸鉄道加南線6010系「しらさぎ」号(石川県加賀市)



皆様こんばんは、「てつきち」です。毎週月曜日は「てつきちの日」。今日の話題は、北陸は石川県加賀市からお送りいたします。

北陸を代表する温泉地「加賀温泉郷」。山代温泉、山中温泉、片山津温泉、粟津温泉を総称して言うこの温泉郷へは、かつて北陸本線の各駅から北陸鉄道加南線(かなんせん)がアクセスしていました。これは片山津線、粟津線、動橋線、連絡線、山中線の総称でした。加賀温泉郷を控えていたことから、1951年(昭和26年)からはセミクロスシートの観光電車を導入して、主に山代温泉や山中温泉へと向かう系統で走っていました。

翌1962年(昭和37年)には、6000系「くたに」号が登場しました。純然たる新車で、オレンジとクリームの「北陸鉄道カラー」。地元の伝統工芸品である九谷焼から名前を付けて、先頭部には九谷焼で出来た「くたに」のヘッドマークが取り付けられました。

その後1963年(昭和38年)に導入されたのが、この6010系「しらさぎ」号です。下回りや走行機器は従来車からの流用でしたが、車体は日本の高速電車では2番目となるアルミ合金製軽量車体が採用されました。その姿と、加南線終点に所在する山中温泉は鎌倉武士が浴する白鷺を見て発見されたという伝説から、「しらさぎ」号の愛称が与えられました。

扉間に転換式クロスシートを配し(車端部はロングシート)「観光電車」に相応しい作りだった6010系「しらさぎ」号と6000系「くたに」号は、たちまち加南線の主役となり、車内では民謡・山中節のメロディーまで流されていたそうです。しかし、加南線の黄金時代も長くは続かなかったのでした。モータリゼーションの発達で1962年(昭和37年)に粟津線、1965年(昭和40年)に片山津線が廃止されたのをきっかけに、北陸鉄道は鉄道線の全線廃止まで検討されました。これには地元自治体が猛反対し、合理化の結果、石川総線と浅野川線のみ残すことを決定しました。

と同時に、国鉄北陸本線の特急停車駅を大聖寺駅にするか動橋駅にするかについては沿線自治体間で激しい争いが続いた結果、国鉄が両駅の中間の作見駅を「加賀温泉駅」に改称した上で拠点的な特急停車駅とし、従来加南線各線を利用していた温泉観光客が加賀温泉駅経由でのアクセスに移行したことで当線の乗客数が激減していた経緯があり、1971年(昭和46年)7月11日に北陸鉄道加南線は全線廃止されたのです。

「しらさぎ」号と「くたに」号は、「加南線電車 さようならのヘッドマークを取り付けられて全線を運行。最終日の午後からは電車の乗車が無料開放となり、沿線住民の他、温泉観光客も加わって大混雑となりました。

そして最後、山代温泉駅に「しらさぎ」号と「くたに」号が並んで、北陸鉄道加南線の歴史に終止符が打たれたのでした。

この「しらさぎ」号と「くたに」号は、幸運にも静岡県の大井川鐵道に再就職が決まり、2編成揃って移籍しました。「しらさぎ」号は、性能が旧型だったことから部品確保や走行装置の確保が容易だったため、大井川鐵道では長らく主要車輌として活躍。時には有料急行電車としても活躍しました。

1989年(平成元年)に新金谷駅で撮影した6010系「しらさぎ」号です。ワンマン改造されたり、車内にジュース類の自動販売機が設置された他は、北陸鉄道加南線時代のままで走っていました。

1995年(平成7年)に千頭駅で撮影した時のものです。雨の日ということもあって、アルミ製の車体が輝いているかのようにも見えました。

大井川鐵道時代の6010系「しらさぎ」号の車内です。北陸鉄道加南線時代とはシートのモケットの色が違うのにお気づきでしょうか?車内には花も飾ってあり、この時代が一番生き生きとしていた時代なのかもしれませんね。

しかし2000年(平成12年)頃になると、さすがに車体のくたびれや部品確保の困難が出てきました。そして2001年(平成13年)に引退となり、長い事千頭駅構内に留置されていました。

その後2005年(平成17年)に本系列ゆかりの地である石川県江沼郡山中町(現・加賀市)での保存が決定しました。これは同年に市町村合併に伴い消滅することが決定した山中町より「地元の記念品として町内に展示保存したい」との申し入れがあり、それを快諾した大井川鐵道が本系列を同町へ無償譲渡したものです。

そして新金谷からトレーラーで運ばれ、現在は「道の駅山中温泉 ゆけむり健康村」に静態保存されています。

大井川鐵道から山中温泉へ里帰りした際に、北陸鉄道の社紋も復活されました。地元の人の「電車に対する愛情」をも感じます。

足回りにもガラスのはめられた、独特の形の乗降用ドアーです。大井川鐵道時代は、ここから「深い渓谷を見る事が出来る」と好評でした。

当時のままに残っている運転席です。右側には、大井川鐵道時代に取り付けられたワンマン装置が残っています。

大井川鐵道時代に取り付けられたワンマン装置です。ワンマン料金箱の操作やドアの開閉も、このスイッチで行っていました。

この電車も、少しくたびれかけた所が出ているのが気になります。でも「地元を走った証である」という話が長く受け継がれ、いつまでも残って欲しいと願わずにはいられませんでした。

最後に、姉貴分の6000系「くたに」号のお話も少ししたいと思います。共に大井川鐵道へ移籍しましたが、新性能電車故部品や走行機器の確保がままならない状態でした。そのためこの電車はトレーラー扱いになり、他の電車に牽引されないと走れない状態にまでなってしまいました。愛称も「くたに」から、南アルプスの赤石山脈に因んだ「あかいし」に変わりました。

その後小田急電鉄からデハ1906号車が移籍すると、この電車に牽引されて3両編成で走るようになり、サービス格差が大きかったことからデハ1906号車は「荷物車」扱いとなりました。

後に大井川鐵道がワンマン化されると、3両編成故ワンマン対応が出来ない同車は次第に活躍の場を失い、1994年(平成6年)の南海21000系電車第1編成導入に伴って本形式は運用から完全に離脱し、新金谷駅近くの側線に留置されていました。そして1996年(平成8年)に廃車解体されたのでした。

【バスツアーのファーストクラス!】はとバスの「ピアニッシモⅢ」でオリエント急行ランチ!


皆様、こんばんは。「てつきち」です。昨年の年末、はとバスの中でもファーストクラスのバスである「ピアニッシモⅢ」に乗り、箱根へのツアーに行って来ました。

新宿駅東口で発車を待つ、はとバス「ピアニッシモⅢ」です。このバス使用の新宿発のツアーは従来の新宿駅西口ではなく、はとバスの案内所のある東口からの発車となっています。バスの定員はわずか24名で、勿論化粧室付き。また「静かな大人の時間を大切にする」ということで、12歳以下のお子様の乗車、10名様以上のグループの乗車、車内での宴会並びに過度の飲酒は一切ダメ、という厳格なルールがあります。果たしてどんなツアーになるのでしょうか?

はとバス「ピアニッシモⅢ」は新宿駅東口を出発してすぐ首都高速に入ります。前方には富士山が見えました。今日の旅、とても期待できそうですね!指定された座席が前から2番目の1人掛席だったので、バッチリと撮影出来ました。

バスが東名高速道路に入った辺りで、ドリンクのシートサービスです。私はホットコーヒーをオーダー。お茶請けにはフィナンシェが付きました。

「ピアニッシモⅢ」のドリンクサービスメニューです。冬シーズンは全てホットドリンクで、コーヒー、紅茶、緑茶、コーンスープの中からチョイスできます。一般のはとバスのツアーですと緑茶だけですが、今回ははとバスの中でもファーストクラスの「ピアニッシモⅢ」。ドリンクサービスからして違いますね!

厚木ICで東名高速道路と分かれ、小田原厚木道路へ。ここで見事な富士山を見る事が出来ました。この先の平塚パーキングエリアで休憩だそうです。

平塚パーキングエリアでの「ピアニッシモⅢ」です。ベースはいすゞガーラで、普通なら正席45名、補助席8名の53人乗りにする大きさのバスを後部に広い化粧室を設置し、シートピッチも広げた定員僅か24名、という超デラックス車にしたものです。

今回のツアーステッカーです。オリエント急行でのランチが、今回のツアーの最大のお目当て。自然と胸が高まります。

小田原厚木道路から箱根新道へと入り、芦ノ湖の湖畔へ。毎年1月2日の風物詩である「箱根駅伝」のゴールである箱根町を過ぎ、最初の下車地・箱根神社へ。

箱根神社の御神水です。初穂料200円でペットボトルも授与され、この御神水を持ち帰ることも出来ます。僅かな時間ではありましたが、ちゃんとお詣りしてきました。

芦ノ湖に浮かぶ箱根神社の鳥居です。ここの風景は「インスタ映え」するらしく、多くの観光客が記念写真をスマホで撮影していました。大半は中国からのインバウンド旅行者がメインで、彼らにとってこの風景はきっと素晴らしい風景だったのかもしれませんね。ちなみに元箱根港の近くからですと、この「芦ノ湖に浮かぶ鳥居」と芦ノ湖、富士山を絡めた写真を撮ることが可能です。特に冬ですと、白く雪化粧した富士山が最高の絵を見せてくれます!

箱根神社を後にして、芦ノ湖の湖岸を「ピアニッシモⅢ」はゆっくりと走っていきます。桃源台からススキの高原を見て仙石原へ。次の目的地である「箱根ラリック美術館」は、この仙石原地区にあるのです。

今回のツアーのメインは、その「箱根ラリック美術館」に保存されている「オリエント急行」のプルマン車の中で「今回のツアー限定のスペシャルランチ」を楽しむというもので、お値段もそれなりにしましたが、滅多に味わえないチャンスでしたので、思い切って申し込みました。

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こちらが、その保存されている「オリエント急行」のプルマン車(車両番号4158号車)です。1929年(昭和4年)の製造で、当初はパリとニースなどフランス南部を結ぶ「コート・ダジュール特急」として使用されていました。その後、この特急列車は廃止され、車両も一時休車になりました。

後に「オリエント急行」のサロンカーとして復活し、多くの豪華な夢を運んできました。1976年(昭和51年)からは「NIOE」(Nostalgie Istanbul Orient Express)としてパリ~イスタンブール間で長らく活躍を続け、1988年(昭和63年)には「パリ発香港経由日本行き」の列車として、日本国内の線路を走ったこともあります。この4158号車も、何と日本の線路を走った車両のうちの1両なのです!

香港からは貨物船に載せられて、山口県の下松へ上陸。ここにある日立製作所の車両工場で、台車をヨーロッパ仕様の広軌用台車から日本仕様の狭軌用台車(1,067mm)に履き替え、日本国内で「ツアー列車」として、北は北海道から南は九州まで国内各所を走りました。ツアー自体は高価格帯にも関わらず、倍率は90倍近くにもなりました。その人気は今の「ななつ星」「四季島」「Twilight Express瑞風」など比較にならないほどの人気だったといいます。

またJR東日本ではこの「オリエント急行」を牽引させるために、わざわざ蒸気機関車「D51-498号機(通称:デゴイチ)を現役復活させたほどの力の入れようでした。「D51-498号機」は上野から大宮までの区間ではありましたが、炭水車にオリエント急行のロゴを付け、力強く走り切りました。

後に「NIOE」(Nostalgie Istanbul Orient Express)が運行を休止するとこの車両も用途を失いましたが、縁あってその後この箱根の地にやってきて、現在では当日予約制のカフェとして営業しています。車内の各所には、ラリックが仕掛けた模様などが残されており、スタッフの方が解説してくれます。

それでは、今回のツアーのスペシャルランチのスタートです!

まずは前菜の盛り合わせから。上から時計回りに「ホタテと天使エビと旬菜のテリーヌ」「ズワイガニのタルタル 柚子の香り」「山麓豚のパテ ビーツのソース」です。一つ一つの素材に力を入れ、見た目も良くして楽しませてくれます。

スープは、カボチャのポタージュです。かなり濃厚な味わいで、パンのおかわりをしたくなる程です。事実、パンをおかわりしてこのスープ皿を拭い、最後まで味わいました!

今回のメインディッシュ「和牛リブロースステーキ トリュフが香るソースヴァンルージュ」。お肉がとても柔らかかったです!ソースの味も最高で、これもパンをお代わりして、ソースを全部拭って食べた程です。ちなみに西洋料理では「ソースを残す」という行為は、「料理人に対して一番失礼な行為」だと言われています。

デザート「りんごのキャラメリゼのズゴット(ムース)です。食後のコーヒーと共に、じっくりと味わいました。食後には、案内人付きで美術館を見学。改めて、このラリックの功績の大きさを感じました。

ミュージアムショップでは、この保存車・4158号車のNゲージ鉄道模型を売っていました。値段も手頃だったので、私も購入。これをブルートレインや「青大将つばめ号」などの編成に挟み込んだら、どんなに素敵だろうな、と一人空想してしまいました。もしもブルートレインの中間車にこのプルマン車を連結した列車が実際に走ったら、きっと寝台券は瞬殺で完売でしょうね!

早めに駐車場へと戻り、今回の「ピアニッシモⅢ」をじっくりと観察してみることにしました。車内には2人掛けと1人掛けのリクライニングシートが8列並んでいます。今回のツアーは総勢12名のようです。

2人掛けのシートです。リクライニングの角度も従来のバスに比べて深く、レッグレストも備え付けられています。また、今のバスでは標準装備となったスマホ用のコンセントも設置されていました。

1人掛けシートです。向かって右側はこの様な感じになっています。使い捨てのスリッパや、車内用のひざ掛けの貸し出しもあるという、飛行機のビジネスクラス並みのサービスです。

シートに取り付けられている、ハトのエンブレムです。このエンブレムが、他のはとバスとは一線を画したデラックスさを物語っているかのようです。

後部化粧室前にある、サービスコーナーです。ここにはコーヒーマシンがあり、本格的なコーヒーを車内で味わえるようになっています。

やがて他のツアー客も三々五々戻ってきて、最後の目的地である御殿場高原「時之栖」へと向かいます。

御殿場高原「時之栖」では、冬の風物詩となりましたイルミネーションを見学しました。ここを出ると、あとは東名高速道路をひた走って東京へ向かうのみです。東名高速道路へ入ると再びドリンクサービスがありました。ここでもコーヒーをオーダー。

この「ピアニッシモⅢ」では復路の車内に限り、飛行機の様なオーディオサービスがあります。各座席にイヤホンジャックが付いているのではなく、希望者のみガイドさんから専用の端末を借りて、座席で楽しむのだそうです。バス前方のモニターから流れているビデオの音声も、この専用端末で聞くので静かな車内でした。

最後の休憩地・海老名サービスエリアでの「ピアニッシモⅢ」です。今回のツアーの最大の目的は2つありました。1つはこの「ピアニッシモⅢ」への乗車、もう一つは「オリエント急行」でのランチ。両方が楽しめて、すっかり満足したひと時でした。この「ピアニッシモⅢ」でのツアーは従来に比べればお高いですが、高いなりの価値は十分あるほどのものでした。

ちなみに日本で一番高級なバスは、三越伊勢丹の上級会員のみが参加出来るツアーで使用される「ロイヤルプレミアムクルーザー」です。乗車定員は僅か12名、ツアー代金もかなりの金額、参加条件も厳格でおいそれと乗ることは出来ません。またクラブツーリズムや阪急交通社「トラピックス」でも最近では高級バスツアーを出すようになりましたので、機会があればそれらのツアーにも是非、参加してリポートしてきたいと思います。

そうこうしているうちにバスは都内へ入り、ガイドさんがオーディオサービスの端末の回収にやってきました。そして最後の挨拶があり、ほぼ定刻に新宿駅西口に帰着しました。

今度はどこの乗り物情報をレポートするでしょうか?次回もまたお楽しみに!

【保存車】鉄道博物館のマイテ3911号展望車に乗ってきました!


皆様、おはようございます。「てつきち」です。今日は大宮にある「鉄道の殿堂」鉄道博物館に保存されている車両の話題をお届けいたします。

今回ご紹介するのは、「マイテ3911」号特急用1等展望車です。1930年(昭和5年)に鉄道省大井工場にて、国際連絡特急「富士」号に使用する1等展望車として製造されました。この国際連絡特急「富士」号は、下関で関釜連絡船に接続し、そこから鉄道の乗り継ぎでモスクワからヨーロッパ方面へ接続する、という特急列車でした。1935年(昭和10年)には、1等寝台車に日本の鉄道車両としては初のシャワールームが取り付けられたほどです。

「マイテ3911」の展望室車内です。普段は非公開でガラス越しに見るような形になっていますが、この時は車内が特別公開となっていました。この奥は非公開となっているので、何があるのか不思議なところですよね。

展望室車端部の車内机部分です。ここの机を使って、手紙などを書いたそうです。

また本棚として使用されていた、という説もありました。

「マイテ3911」のソファです。今回の車内公開で特別に座ることが出来ました。座り心地は上等で、このソファに座って汽車旅なんてどんなに素敵だったのだろうか、と思いました。

「マイテ3911」の天井部分です。外国人からは「日本らしい!」と好評でしたが、日本人からは「まるで霊柩車に乗っているようだ」と揶揄されていました。

 

マイテ39の欄間彫刻です。そこかしこに、当時の技術と芸術さが活かされていますね!

現在、この様なデッキのある展望車は、JR山口線の「SLやまぐち」号のグリーン展望車で乗ることが出来ます。これもこの1等展望車をモチーフに再現されたものだそうです。

またSL列車でお馴染みの大井川鐵道でも、西武鉄道の電車を改造した展望車「スイテ821」が走っています。こちらは時々団体用として一般のSL列車に連結されて走る他、各種イベント列車としても走る事があります。デッキで風に吹かれながら旅を楽しむ、何て素敵な旅でしょうね!

懐かしの船旅がよみがえる!青函連絡船「摩周丸」(北海道函館市)



JRを函館駅で降り、岸壁の方へ向かうと1隻の大きな船が停泊しているのが見えます。これが、青函連絡船で1988年3月の青函トンネル開業まで最後まで活躍していた船の一つ「摩周丸」です。


またこの場所は実際の乗り場であった旧函館第二岸壁に係留・保存して公開されています。


乗船すると、まず目にするのはかつての座席です。青函連絡船には、普通船室(桟敷席)、普通船室(一般座席)、グリーン船室(座席)、グリーン船室(桟敷席)、寝台とありましたが、ここにはグリーン船室と普通船室の座席が展示されていました。(尚、晩年に活躍していた石狩丸と檜山丸には、グリーン席、寝台はありませんでした)


普通座席は背面に折り畳み式テーブルが取り付けてある、当時の特急列車と同じタイプのものでした。座り心地もなかなか良かったです。約4時間の航海なら、これで申し分ないですね。


グリーン座席はリクライニングシートですが、リクライニングの角度は今のグリーン車や夜行高速バスも顔負けのゆったり感で、深夜便などでは特に人気だったそうです。これならグリーン料金追加で乗ってもいいですよね。


この船は、かつてグリーン船室だった部屋を改造して、展示室になっていました。ここでは、青函連絡船の歴史などが展示されており、かつての乗務員の制服も展示してありました。


最前部は喫茶室と売店になっており、その片隅では「洞爺丸台風」に関する展示がされていました。1954年(昭和29年)9月26日、台風15号により青函連絡船「洞爺丸」をはじめとする5隻の連絡船が沈没して、多数の犠牲者が出ました。この事故が、青函トンネル工事の起爆剤となったといっても過言ではないと言えます。


後ろから見た「摩周丸」です。鉄道車両を積み込むための甲板に水密扉が取り付けられているのが分かるかと思われます。これは「洞爺丸台風」の時、車両甲板の搬入口が開いていたため、そこから大量に浸水し、沈没に至ったという教訓からです。

また当時青函連絡船では、上野発札幌行きの直通1等寝台車の航送もありました。これは上野から青森まで急行「みちのく」号に1等寝台車を連結し、そのまま青函連絡船に乗せて津軽海峡を越え、函館から札幌までまた別の急行列車に連結して走る、というものでした。そのため当時の青函連絡船船内には、この寝台車専用のプラットホームとトイレ、洗面所が設けられた船もありました。しかし、この「海を渡る寝台車」も、洞爺丸事故で安全面を考慮した結果廃止され、上野発札幌行き直通列車は、1988年3月の青函トンネル開業による寝台特急「北斗星」号のデビューまで待つことになりました。

同じように「海を渡る列車」は岡山県の宇野と香川県の高松を結ぶ「宇高連絡船」でも実施されていました。本州から客車ごと乗船し、そのまま四国へ渡れるというメリットがありましたが、こちらも1955年(昭和30年)「紫雲丸事故」で、修学旅行生をはじめとする多数の犠牲者が出たため廃止されました。この「紫雲丸事故」が、瀬戸大橋建設の大きなきっかけになったことは言うまでもありません。


ブリッジ(操舵室)も公開されています。当時の操船技術を物語るかのような雰囲気がして、気分はすっかり航海士。場所柄、ある時は吹雪や高波との闘いだったんだな、とふと思いました。


こちらが通信室です。モールス信号や船舶無線などをここでやり取りしていました。他にもロープ結びの話や、様々な展示がされており、とても短時間では回り切れないほどです。


上の階に上がると、そこには普通船室(桟敷席)が復活してました。船旅はこうでなきゃ、と思い上がってみます。すると、ここでのんびりと横になりながら津軽海峡を渡った記憶が思い出されました。方言が飛びかう何気ない雑談。約4時間の航海があっという間だったことが今でも印象に残っています。


それでは最後に、函館上空から撮影した「摩周丸」を見て見ることにしましょう。成田空港から乗ったバニラエアで、ちょうど右側の窓際席に当たったので、この様に函館上空から街並みを見下ろす事が出来ました。ちょうど中央に「摩周丸」が停泊しているのが見えます。


今度は「摩周丸」部分だけをトリミングしてみました。この姿、現役時代を彷彿とさせてくれますね。

【施設データ】
◆所在地 〒040-0063 北海道函館市若松町12番地先

◆電話番号 0138-27-2500

◆営業時間 
*4月~10月:8時30分~18時(入館は17時まで)
*11月~3月:9時~17時(入館は16時まで)
*12月31日~1月3日:10 時~15時(変更、または休館になる場合もあり)

◆定休日 なし。但し、4月第2月曜日(2019年は第1月曜日)からその週の金曜日まで整備休館あり。

◆入場料
*一般(大人):500円
*児童・生徒(小学生・中学生・高校生):250円
*幼児・未就学児:無料

僅か数年で消えた幻のモノレール!手柄山交流ステーション(兵庫県姫路市)



姫路駅からバスで10分のところにある手柄山公園。面積38haの市民公園。太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔がある山を中心に、手柄山遊園水族館温室植物園回転展望台平和資料館など様々な施設がある姫路市民憩いの場所となっています。

姫路駅からこの手柄山公園まで、かつてモノレールが走っていた事を知っている人も、今では少なくなりました。

姫路博へのアクセス手段として開業
1966年(昭和41年)、姫路市の手柄山公園にて「姫路大博覧会」が開催されました。

 


その会場へのアクセス手段として、姫路駅から手柄山駅まで1.6キロのモノレールが5月17日に開業しました。


工事の遅れなどから、博覧会の開幕には間に合わなかったですが、開業時には多くの市民がこのモノレールを待ち望んでいたそうです。当初は市内に環状路線を敷き、広畑などの播磨工業地域までの延伸や、遥か鳥取までの路線構想まで打ち出されたほどでした。

日本では珍しかった「ロッキード式」モノレール
モノレールには大きく分けて、東京モノレール、大阪都市モノレールなどが採用している「アルウェーグ式(跨座式)」と、湘南モノレール、千葉都市モノレール、上野公園モノレールが採用している「ソルフェージュ式(懸垂式)」の2種類に分けられます。


実際に使用されていた、走行用のレールです。跨った軌道の上に更に敷かれていました。この姫路市営モノレールは、線路を跨いで走るタイプでしたが、跨いだ線路の上に更に敷いてある線路をなぞって走る「ロッキード式」と呼ばれるものでした。この「ロッキード式」タイプは、従来のモノレールより高速運転が可能というメリットがありましたが、従来の「アルウェーグ式(跨座式)」に対して騒音が激しく、乗り心地も劣ったため日本では小田急向ヶ丘遊園モノレール(現在は廃止)と姫路市営モノレールでのみ導入されました。

乗客数が伸び悩み、休止から廃止へ


「姫路大博覧会」が閉幕すると、当初こそもの珍しさから乗客数はそこそこあったこの姫路モノレールでしたが、並行して走る山陽電車の運賃より高い、などの理由から乗客数は伸び悩んむようになりました。開業2年後には中間駅だった「大将軍駅」が廃止され、姫路駅から手柄山を結ぶシャトル的存在になりました。


この様に団体割引や往復割引などあらゆる増収策を凝らしましたが、赤字状態はどうやっても脱出する事が出来ずに、1974年(昭和49年)に全線運行休止、1979年(昭和54年)には正式に廃止となりました。

保管されていたモノレール車両
路線廃止後、モノレールの車両は旧手柄山駅にて長い間保管されていました。2003年(平成15年)以降、このモノレールを公開しよう、という動きが始まり、整備が進められてきました。


2009年(平成21年)秋には検修線からホーム内に車両のうち2両を移転する作業が始まり、当時のホームを展示場に、旧検修線部分を水族館新館とした「手柄山交流ステーション」として2011年(平成23年)にオープンしました!


展示されているのは、当時走っていたモノレールの中で両運転台だった200形電車2両編成で、1両は車内の見学も出来ます。


車内にはフカフカの固定式ボックスシートが並び、観光輸送に特化した内装でした。もしもこれが、日本列島を縦断していて鳥取まで走ったら、どんな姿になっていたかを想像しただけでも興味深いです。それだけ、当時はモノレールというものが「未来の世界の乗り物」と思われていたのですね。


200形電車の運転台です。長年、厳重に保管されていたこともあって状態は良かったです。

また、旧プラットホームには当時の駅名板や広告、時刻表まで再現されており、あたかも当時のプラットフォームに立っているかのような錯覚を味わせてくれます。


再現された手柄山駅の駅名板です。「大将軍」駅の表示もそのままでした。

 

 

 


ホームの一角には、2010年に全線廃止(神姫バスに移管)された姫路市営バスの資料も展示されています。


屋外に展示されている、姫路モノレールの台車です。現役時代は決して見ることが出来なかったため、貴重な資料です。

今でも残るモノレールの線路
わずか数年で廃止された中間駅・大将軍駅は、ビルの中をモノレールの線路が通過する珍しい構造故、廃止後も長らく建物が残っていました。しかし、耐震問題などから解体が決まり、2016年(平成28年)の夏に2回、一般向けの見学会が開催されて、その競争率は50倍にもなったほどの人気でした。


また、山陽電車で山陽姫路駅を出発すると、車窓右手に当時の橋桁跡が残っているのを確認する事が出来ます。

【施設データ】

〒670-0971   兵庫県姫路市西延末440番地  手柄山中央公園(緑の相談所)

電話:079-298-5571 

*開館時間 9:00~17:00

*入場料 無料(水族館は有料)

*休館日 毎週火曜日(祝日の場合は翌日)、12月29日~1月1日